プロジェクト構想 その6-2
これからの住宅設計は、
「間取らない」ことだ、
と秋山東一はいう。
アフターコロナで待ちかまえているのは、工務だけの工務店も、設計だけの設計事務所もやっていけなくなる、という厳しい現実です。
どうしたらいいのか? それは、地域に「建築屋」として立つことだ、と「A2」プロジェクトは考えました。工務店と設計事務所の連携・提携の話は後で述べるとして、まず、ここでは今の工務店の設計力を問い、設計力をどう身につけるかについて深掘りします。
直近の「秋山東一設計道場」で、秋山東一がテーマにしたのは「間取るな危険」というものでした。
道場での模様について、秋山さんのサイト「aki`s STOCKTAKING」を転載します。
秋山設計道場2021第2回は横浜、関尾英隆氏率いるあすなろ建築工房をホスト工務店として行われた。関尾さんは元道場生、4年程前にご自宅にしてモデルハウスに伺ったことありで、極く親しい……、叉、各種イベントでも顔を合わせる機会がありで、今回の開催をお願いしたのだ。しかし、このコロナ禍、非常事態宣言下というわけで、オンラインで ZOOM で行われた。まぁ、今年は先月の名古屋開催も ZOOM ということで、道場の特色とする「アウェイでの即日設計」を実行することなく……、は残念だが、オンラインでの優位性を活かしていきたいと思う。関尾さんからいただいた課題は超難物、5m超えの擁壁の上の三角形100㎡という土地、そこに家族5人、車にバイク……という課題だ。
「狭小敷地=3階建て」という考えになりがちだが、あくまでも、それは結果論……、この小さな敷地の可能性をひも解いていった。建ぺい率60%容積率150%は呼び水のようなものだが、まずは最大の平面から考え始める。三角形の敷地は斜め出まくりだが、それはいたしかたない。まずは、車、バイク、自転車、玄関を決める。この敷地の一番ネガティブな西側隣地境界に沿って水周りを配し、仕事場、寝室、収納……、眺望が期待できる物干しを兼ねたデッキを設ける。もちろん、2階はリビング、キッチン、ダイニングと三つの個室を設える。そして、最大の設えは東側に広がるデッキ、道路側にはバリアと名付けた塀というか壁に守られた設けている。自ずと屋根は、南北棟の切り妻となってしまい、屋根裏ロフトの余地が無くなってしまった。今回は、お約束の「小屋」を作る余地もなくも……、残念だが、致し方なし。まずは……、計画は、2階建てから始まり、ロフト、そして、やむをえず、3階建て……、それが筋、道理というべきプロセスだ。
追記 210227
今回の課題、on-line で良かったと思った。リアル道場で、この敷地を見せられても……、何もできずに、形にできずに終わってしまったのではないかと思う。しかし、あすなろ建築工房のスタッフの皆さんが「間取り」的な手法をとるのに対し、道場生達のアプローチは違ったのが顕著だったように思う。まっ、これもうまく出来ているかどうかは別として、道場の教育の成果かと思う。新しい標語を思いついた「混ぜるな危険」ではなく「間取るな危険」だ。
引用元:http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/005084.html#more
通常の設計道場は、一泊二日で、初日が敷地見学、翌日は課題設計(A3用紙1枚にまとめる)と、午後から発表と講評になっていますが、zoomの場合は、数日前に課題土地が知らされ、各々課題設計し、zoomを使って発表と講評、後に秋山さんが赤入れした図面が送られてくるとのこと。
秋山さんは、設計力をどうつけるかでみんな困っていて、それに対する一番のやり方だと自負されています。
以下は、今回の設計道場のホスト工務店である、あすなろ建築工房代表の関尾英隆氏が、Facebookに投稿された記事です。
本日は秋山設計道場 横浜場所が開催されました。2012年にスタッフとともに秋山設計道場にて鍛えて頂いてから早いもので9年が経ちます。秋山先生に横浜にお越しいただき、スタッフとともに講義を頂き、課題を提出し、ご批評いただき、野毛で盛大に反省会の予定だったのですが、非常事態宣言下ということで、ウェブでの開催となりました。秋山先生の愛のある厳しい指導があるのが設計道場の魅力です。秋山先生も丸くなられたのか、弊社スタッフが辛抱強いのか、以前のような「泣いてしまう」ようなことはありませんでしたが、しっかりと厳しいご批評を頂きました。私からご提供させて頂いた設計条件は、横浜らしい傾斜地に建つ狭小地の3階建ての計画です。建売住宅を15年前にご購入された方の建て替えで、30坪変形敷地に、北側斜線と道路斜線がとても厳しいという条件の土地です。しかもそこにお子様5人で、ご主人様がご自宅勤務され、ハーレーダビッドソンの大型バイクも駐車するという難解な課題となりました。私たちはどうしても間取りを嵌めこもうとしてしまいますが、秋山先生はしっかりと居心地のよい空間を作ってから、そこに生活を当てはめていくという設計をされていました。凝り固まった思考回路が、ほぐされたような気持ちです。既成概念に捕われず、いろんな意味での最適解探しをこれからも行っていきたいと思います。本日はありがとうございました。
引用元:https://www.facebook.com/hidetakasekio/posts/3830723530345193
鈴木岳紀さんは「続けることが才能を育てる道場なんだ」と言います。
最近の設計道場がどのように開かれているのか、このやり取りを拝読しながら感銘を覚えました。本稿「構想2」の「フォルクスハウス・インパクト」に「工務店における、フォルクスハウスの受容のかたち」について述べましたが、それらはフォルクスハウスの設計を通じての話であって、現在、行われている設計道場とは異なります。
秋山さんは、設計の知識を得る「学校」ではなく、設計力を身につける「道場なのだ」といいます。運営主事を務められ、師範代の役割を負っておられる鈴木岳紀さんに伺ったら、この道場ではいきなり「即日設計」に取り掛からなければならず、みんなが描き上げたエスキスの発表の前に、道場主・秋山東一によるものが発表されるとのこと。後出しジャンケンでなく、道場主自身が身を晒すわけです。一人一人の発表が一巡すると、自分の実力の程度を、本人自身が気づかざるを得なくなるそうです。
当然、秋山はその批評を行います。それに面食らい、事後、参加しなくなった人から聞いたら「あそこはマゾヒストの集まりで、僕はついて行けなかった」という感想でした。秋山さんのキツイ批評を「参加者は嬉々として聞いている」というのです。笑いまで起こるそうで「羞恥心や屈辱感があればやってられない」ということでした。
鈴木岳紀さんは、半年間は戸惑うことがあるけど、3年間続ければ、道場で修練したことと、その人の地金が合わさって、設計者として一つの域に達すると言います。
あすなろ建築工房の関尾英隆さんは、ご自身の体験から「秋山設計道場は、初心者には過酷かもしれませんが、それを乗り越えた先には、「手慣れ」というある卓越した世界がある」と言われます。
秋山東一は、12年間にわたって「設計道場」一本と言っていいところに、自らの身を置いてこられました。こんな建築家は、他に知りません。
私は、中学生になってクラブ活動を何にするかということで、まずバレーボール部に行ったら、きついシュートを受けて突き指し、すぐにやめました。次に柔道部に行ったら、受け身ばかりやらされ、やはりその日のうちに退部しました。軟弱にできているわけですが、やはり、しっかり身につけるには修練・鍛錬が必要であり、そのためにはよき指南役が必要です。
秋山道場は、「隗より始めよ」で、経営者自ら参加されている工務店が少なくありません。
設計力の向上が経営の力になるからでしょう。若い人は、奮ってご参加ください。経営者は、意欲のある若手を送り出してください。
秋山設計道場 「ククルくん分会」の取り組みについて
というわけで、今回のプロジェクトの「設計道場」も、同じように「道場」であります。
ただし「本道場」ではなく、通常開かれている「設計道場」とは別に、2021年4月の開始月から2022年11月までの20ヶ月間、期間限定で開催される「道場」です。
このプロジェクトなら、と「本道場」から参加する人もいるかも知れませんが、新人が多い分、一緒に大変を経験できましょう。
計画している「ククルくん分会」の取り組みは、
- 入政建築が建築する「里山のある町角in宇刈」モデルの基本計画・設計に、オンラインを通じて参加し、道場開催日の前日に課題設定を届け、翌日「即日設計」に臨んでいただき、道場主からそれに対して「朱」を入れてもらいます。
- 本道場の基本課題は、一軒ではなく数軒の計画を対象とします。できる限り実施案件とし(参加者から申し出がある場合は、道場主の判断のもと、課題として取り上げます)、田瀬理夫の土地計画にも学びながら、「里山のある町角」のつくり方を身につけます。
- この反復を繰り返しながら、アフターコロナの課題とされる、新しい居住コミュニケーションのかたち、「家(箱)をつくる工務店」から「小さな町角(場)をつくる工務店」へと歩みを進めます。
「間取るな」を考える
もう20年位前になるでしょうか、大学で教鞭を取っている友人が建築科の学生に「将来自分が住みたい家」を課題にプランニングさせたところ、全員がnLDKプランだったという話を聞いたことがあります。最近はどうなのか、気になって大学で教鞭を取っている郡裕美さんに聞いたら、今も学生も大半は、そんなふうだといいます。
この骨の髄までの「間取る」習性は、どのようにして日本の住宅設計を蝕んだのしょうか。この国の住宅史を紐解きながら、それを見ておきます。
そこで「間取り」とは何か、ということになりますが、それを遡ると、日本古来の「木割術」に行きつきます。
木割とは、柱間(はしらま)を基準に、建築各部材の寸法、その整数比率で定めたものです。「木割術」は木砕と呼ばれ、用材の種類・寸法・数量を割り出す木取りを決めるために作られました。またそれは、規矩術ともいわれました。「規」を測るには、ブンマワシ(コンパス)を用いました。竹の心棒を立て、針の先に筆をつけて回転させ円を描きました。「矩」とはサシガネです。
この二つの道具を用い、慣習的寸法にしたがって進めれば、木割術により、柱の位置を決めるだけで、速やかに空間を構成することができます。この方法は、平面における一間という基本寸法、立面における床高・天井高・軒高などで構成され、一種の空間翻訳機能ともいうべきシステムになりました。
間取りが決れば、意匠と構造が決まり、詳細設計まで見通せるというのですから、これは世界に誇れる日本の木造技術といっていいのかも知れません。法隆寺も、東大寺の大仏殿も、市井の町家も、そうして造られました。しかも、建築のための道具は、ノコギリ・ノミ・カンナなど簡便な手持ち道具です。
つまり、日本の家は、設計図がなくても建てられたのです。当初は『匠家極秘傳』など秘伝書として伝えられ、番匠の家系に蓄積されましたが、この「マニュアル」は知らぬ間に洩れて、日本の各地に伝播しました。木割を記述したものを木割書といい、これを書けたら大工棟梁として一人前といわれました。
古来この「木割術」が「間取り」の元とされますが、しかしこれは、柱間であって「部屋取り」を意味しない筈です。
「部屋取り」が重視されたのは、貴族や武士の館でした。貴族や武士は階級社会なので、身分によって格式が定められ、住宅もそれに合わせて「間」数が決まりました。身分の序列、等級が「間」に様式化され、身分の低い者は、その部屋に近づくこともできませんでした。貴族社会でも同じことがいえますが、『源氏物語』や『枕草子』に見るように、もう少し自由で、風流がありました。強烈な家意識に捉われ、しかつめらしく「部屋取り」に精を出したのは、江戸期以降のことです。
余談になりますが、「寝殿造り」は、大らかな日本の建築の原初的形態といってよく、開口部は蔀戸でした。柱間に一枚の大きな板戸を設け、昼間は内側に釣り上げて開く建具です。開けるときは外側に吊り上げてとめました。平安時代も後期になると、引き違いの格子戸が広く用いられるようになり、それはやがて、日本的な創意工夫による明り障子へと発展して行きます。
寝殿造りには天井はありませんでした。母屋部分は、細かい格子の”組入れ”が取付けられていました。これが天井の始まりです。床は、全面板張りでした。
夏は風通しはいいけれど、この造りで、底冷えのする京都の冬を過ごしたものだと感心します。屏風を張りめぐらし、板の上に畳やその他の敷物を敷き、厚着し、囲み火鉢を抱え込んで過ごしました。
おもしろいのは、床の段差部分に取りつけられる下長押です。「平家物語」を読むと、長押に腰を降ろす場面が出てきます。下長押は、切目長押とも呼ばれます。現在の長押は鴨居の上にありますが、この時代の長押は、床のあたりにありました。寝殿造の構造に関係していて、長押が横架材として用いられていたからです。その後「貫工法」が発達し、長押はやがて装飾化して行きました。
家格の上下を「間取り」で決める武家の家に対し、民家には、庄屋などの家を除いてこのような格式はありませんでした。
民家という言葉が最初に登場したのは、鎌倉時代の『吾妻鏡』(文治2年/1186年)です。この本には、民家と並んで「民屋(みんおく)」という言葉が登場します。しかし、この言葉が建築用語として定着を見るのは、柳田国男、今和次郎などが登場してからのことで、「民家」という言葉は意外と新しいのです。
住居学では、貴族や武士たちの家を「住宅」と呼び、一般庶民のそれを「民家」と括り、さらに民家は、農家・漁家・町家に再分類されます。民家の中で、町家は高密度の独立住宅でありながら、建物の正面は、直接道路に接し、隣家に接し、長屋になって、ユニット列上に並んだ建築群をいいます。
江戸期の農家では、高床はほとんど見られませんでした。土間に囲炉裏、寝所もムシロを敷いた土間でした。一般農家に板床が登場したのは、明治以降のことで、間取りも何もありませんでした。
江戸時代も近世と呼ばれる時代に入ると、町人階級が台頭しました。商家の旦那衆は、接客のための家・格の競い合いを行うようになりました。武家の書院に対し、数寄屋建築が普及しました。町人は、井原西鶴の『日本永代蔵』に見られるように、合理主義を信条としたので、武家ほど格式や「部屋取り」にこだわりはありません。けれども、お金がある証として贅を尽くした普請を行いました。
数寄は自由を意味し、利休の時代の数寄屋建築は、奢らぬこころと自由な精神が横溢していましが、近世のそれは銘木が珍重され、形式主義が出張ります。桂離宮を見た者は、節だらけの柱に驚きを覚えます。今に至る「無節信仰」なるものは、近世町人の普請道楽の産物であることが分かります。明治に入ると、新興財閥を中心に邸宅が建てられました。
西山卯三の本によれば、邸宅の定義は①金が掛けられ、②手の込んだ仕事が施され、③その時代の最高の技術が用いられ、④設備が行き届いていて、⑤富や権力を表わすもの、⑥その地域の一等地に建ち、⑦規模が大きく、⑧ニワをめぐらせた大きな屋敷構えの家をいいます。部屋数が多く、大きな家をステータス・シンボルとする発想は間数(部屋数)が多い少ないで、住宅の良し悪しを決める「間取り病」に通じているのかも知れません。
邸宅への憧れは、工務店業界において、①予算がなく、②手間を掛けられず、③狭い敷地に建つ建物まで「○○邸」と呼び慣わしているのに通じています。
ざらっと見てきましたが、根底にわが国伝統の木割術があり、一種の空間翻訳機能ともいうべきこの方法が、戦後、住宅公団のnLDKモデルによって「部屋取り」に転化し、定着を見ました。
しかし、本来それは、あくまで柱間を意味したのであって、即「部屋取り」ではありませんでした。農家の田の字型の家も木割術にしたがっており、木割術は決して自由な生活を拒むものではありません。
持て余す家はつらくなる
注文住宅方式による、目的限定プランが行き詰まりました。
所ジョージが司会したテレビ番組は、それを「ビフォー(以前の住宅)」と呼び、劇的に「アフター(改修)」すべしといいました。住宅の改修方法は、いささか無茶が見られ、構造的に大丈夫なのか、本当にこのコストでやれるのかと疑問符が付きましたが、住むに耐え難い家が多いことから、この番組が長く続きました。あの番組に出てきた住宅のほとんどは、注文主の要望にしたがって、適当に間取ったものだから、これを続けてきた結果、どうにも住み難い住宅が増えました。
かつて農家は、「田の字型」プランが基本でした。襖や板戸で仕切るだけで、部屋の用途は無限定でした。食卓を置けば食堂になり、布団を敷けば寝室になりました。「無限定空間」と呼ばれるユエンです。
しかし、住宅公団が始めたnLDKモデルは、部屋が「目的限定空間」化されます。
ルームの方法は、欧米の長い歴史の中で形成されたものですが、個室の経験がなかった日本では、時間の経過と共に、さまざまな問題が生じました。
子どもの引きこもりがその一つで、1980年に川崎で起こった金属バット両親殺害事件は、受験戦争とエリート指向が巻き起こした悲劇とされました。受験生はカギが掛けられる部屋に引きこもり、しかも人間関係が希薄な新開地であったのが要因の一つだとドキュメンタリー作家の佐瀬稔は書いています。
nDLKモデル全盛の時代、日本経済は上昇の一途を辿り、結婚・子育て・マイホームの実現は、いわば黄金コースでした。家族の数だけ部屋を設けることが、家づくりの基本とされ、子どもが中学生に達し発言力を持ち出すと、プラン作成の場は家族間の「部屋取り合戦」の様相を呈しました。しかし、子どもはすぐに大きくなります。5年経ち、10年経ち、二世帯住宅といわれて同居していた父母が亡くなり、子どもは大学に進み、就職し、住まいは夫婦二人だけになってしまうと、いつの間にか、空いた部屋は物置部屋になってしまいました。
持て余す家は、つらくなります。そんな家が、いまゴマンと増えています。日本の家族の変容と共に、明らかにnLDKモデルは行き詰りを見せているのです。
文 小池一三